映画@見取り八段

自己満足映画批評ブログです。邦画・洋画などジャンル問わず観賞。劇場上映中作品のネタバレ感想は別枠で表記。ランキングは年末総評価まとめで。

『野のなななのか』四十九日

野のなななのか 

  野のなななのか.png

監督: 大林宣彦   
キャスト: 品川徹、常盤貴子、寺島咲、山崎紘菜、安達祐実、窪塚俊介、左時枝、村田雄浩、松重豊、柴山智加、内田周作、細山田隆人、小笠原真理子、イ・ヨンスク、大久保運、小磯勝弥、斉藤とも子、原田夏希、猪股南、相澤一成、根岸季衣、パスカルズ、伊藤孝雄
公開: 2014年5月17日


2014年5月21日。劇場観賞

無知で、初めて聞いた言葉だったが「なななのか」というのは四十九日の事らしい。
初七日(しょなのか)四七日(よなのか)七七日(なななのか)。
四十九日までは人は生と死の境界線が曖昧な状態。だから「さまよう」。


人は常に誰かの代わりに生まれ、誰かの代わりに死んでゆく。
だから、人の生き死には常に誰か別の人の生き死にに繋がっている。


2011年3月11日。北海道・芦別で鈴木光男という92歳の老人が亡くなる。
その臨終の日から四十九日までを描いた物語。

「四十九日まで」といっても、描かれる時間はとんでもなく長い。
物語は光男の過去へ遡り、現在へ戻り、また過去へ飛んでいく。

上映時間171分。
3時間に詰め込まれた情報の量は溢れ出るほど。舞台劇かと思うくらいの熱さで登場人物がスクリーンの向こうから機関銃のごとくメッセージを放ち続ける。

 

それと同じくらい大量の音楽に流されて夢のように時間は過ぎていき、観賞後は脳がグラグラ揺れる。

長い旅から戻ってきたような心地よい疲労と、寂しさ。

戦争、樺太、恋、家族、中原中也、原発、過疎と故郷、そして死と生。

光男の臨終に現れた女性は一体どういう女なのかというミステリーを紐解きながら物語は光男の人生を辿る。


1人の人間の死が1つの時代の終わりも表す。人だけではなく、国も土地も。1つの死は未来へと新しい命を繋げていく。いや、繋げればならないのだと訴える。

輪廻転生の物語。


芦別の風景が、全部セットではないのかと疑ってしまうほどファンタジック。
パスカルズ演じる野辺送りの楽団は観に行って5日経つ今でも頭の中で踊りながら歩き続ける。


あの郷愁感を味わうためだけにでも、何度でも観に行きたいくらい。


思い出は辛く苦くも美しい。

「汚れっちまった悲しみに…」を描きつつ、そのイメージはずっと「青い空は動かない」なのである。


青い空は動かない

雲片一つあるでない。

夏の真昼の静かには

タールの光も清くなる。

夏の空には何かがある、

いぢらしく思はせる何かがある。



安達祐実が今まで観たどんな安達祐実よりも美しく清らかだった。


テーマがいっぱい詰め込まれたプロパガンダ映画…のように思えるかも知れないけれども、その芯にある物はもっと単純で清らかな物に見えた。

人がいる。それが故郷であるということ。
家族がいて血が流れている。それが家であるということ。

 

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わたしはなぜ死ぬのでしょう?誰かの代わりに…。

命には終わりがある。そして始まりがある。

青い空 動かない 夏

1945年8月15日。日本はポツダム宣言を受諾。多くの日本人は第二次世界大戦はそこで終わったと思っている。

けれども、樺太の戦いはそこから始まった。終わらない戦争。終わらない夏。

「8月16日14時46分」で止まった時計。
光男の時間はそこで終わった。綾乃の時間がそこで終わったからだ。

だが、生きている限り外の時間は流れる。
結婚、生まれてきた子どもたち、そしてその死。
鈴木家には孫だけが残った。

そこへ現れた16歳の少女・信子。持っていた中原中也の「山羊の歌」は綾乃の詩集だった。


確かに信子は綾乃の生まれ変わりだったのだろう。光男が受け入れたのは信子ではなく綾乃だった。


けれども、信子は「信子」としての自分を欲していた。
絵が完成した時、光男が自分を「信子」として受け入れていない事をハッキリと悟った信子は出ていく。

光男の臨終に信子が戻ってきたのは「生と死が曖昧ななななのか」の間に綾乃と光男を共に旅立たせてあげたかったから。そして信子としての自分を受け入れてもらいたかったから。

「16歳で死んだはずの信子は幽霊だったのか」については、私は生きていたと思っている。光男の記憶と言葉でできていた信子。けれども実体はある。

だって、信子にはちゃんと生活感があった。
カンナのタオルの洗濯に柔軟剤を使い、秋人のズボンのお尻の綻びを縫ってあげていたのである。

「七七日が終わったら、ここでまた一緒に暮らす?母ちゃん。」

クールに見えるカンナの、母への思いが切ないワンシーン。

信子が「星降る文化堂」を結局出て行ったのは、信子の光男への思いはきちんと昇華し、ここにいたら秋人が家の中で迷子になり続けてしまうからかな。

人がいる限りそこは古里であるから…「星降る文化堂」にはカンナが残る。
家と共に残る決意をしたカンナの表情が清々しかった。


「この映画を観て色々と考えさせられました」

というのは中学生の感想文のようだけれども、個人的に本当に色々と考えさせられる部分が多かった。

ここからは特にただの思い込み日記なので的外れな事をつらつらと…。

ちょうど最近、親が大きな病気で手術したばかりで。
幸い成功して退院もしたけれども、患部を取りきったわけではないので治療は続く。

そんな私にとって「なななのか」は本当に少し近く感じられる作品であった。
送られる人が彷徨うこと。送り出すということの意味。送り出す人にたくさんの過去があること。


笑気のマスクの下からベラベラ喋り出す品川徹さんを見ながら、ああ…たぶん本人はあんな感じに彷徨うんだろう…と思ったりしていた。


パスカルズの行進演奏は、落語『地獄八景亡者戯』を思い起こさせた。
これは朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』の影響。

『ちりとてちん』では、にぎやかに楽しく物見遊山のように旅立って逝きたいと願う師匠が描かれた。

あの野の楽隊は、全くその通りの姿だったわ。


人間には必ず終りが来る。
けれども残っている者は生きてその後に生まれる人間に未来を託さないといけない。
生まれて→作って→死んで→生まれて→作って……。
この「作って」の部分をやるべきなのが私たちだということ。

「放り出さなければ」
宇宙のように広がって続いて行くのだ。

「野のなななのか」公式サイト


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