『マーサ、あるいはマーシー・メイ』記憶と現実

マーサ、あるいはマーシー・メイ原題 : ~ MARTHA MACY MAY MARLNE ~

   

監督: ショーン・ダーキン   
出演: エリザベス・オルセン、ジョン・ホークス、サラ・ポールソン、ヒュー・ダンシー、ブラディ・コーベット
公開: 2013年2月23日

2013年9月9日 DVD観賞。

前半は特に大きな動きはなく淡々と主人公マーサの「おかしさ」が描かれる。

家族にしては何だか妙な大勢での食事風景、からの、突然逃亡するマーサ。
そして、音信不通であった姉に連絡を取る。
「何か」を恐れているのは解るが、その正体は解らない。

前半はずっとそんな風に続いていく。

親を失くした孤独から、マーサは山の中で集団生活をしている集団の一員になり「マーシー・メイ」として、その世界での生活を2年間送っていた。しかし、ある時からマーサはその生活に怯え出し脱走して音信不通だった姉の元に身を寄せる。

「集団」の中のマーシー・メイと、姉の元で暮らすマーサのシーンが特に何の演出もなくコロコロ入れ替わる。どれが過去でどれが現在なのか慣れるまでは戸惑うほど。

しかし、マーサの顔付きはそれぞれのシーンで微妙に違う。主演のエリザベス・オルセンの凄いところ。

姉の元で生活するマーサは常識から外れた行動を繰り返し、少しおかしい。指摘されると従うが、何がいけないのかは解らない様子。

「集団」の中のマーシー・メイはとても自由だ。「集団」の規則は「自分の役割を見つけること」ただ、それだけ。性的な感覚もフリーだ。それが通過儀式だから。

ちょっと見には山の中の暮らしがあまりにも自由そうで、マーサがなぜ逃げ出し何を恐れているのかよく分からない。しかし、彼女は姉の元にいる間に次第に過去をフラッシュバックさせ狂っていく。

彼女は何を恐れるのか。
逃げ出すに至った原因は何なのか。

それが描き出されるほどにゾッとする。
そして、あのラスト……。

悪夢なのか現実なのか、ハッキリしなくなっていく女。
「ブラック・スワン」のスタジオ制作…という事だが、映像はあそこまで悪夢的ではない。
その分、境界線が解りにくい。

カルト教団における洗脳の恐ろしさは日本でも実際に同じような事件があるので想像はできる。
最初はきっと楽しくて不満も不安も無くて。気づいたらその中でしか生きられないようになる。

マーサは気づいたから逃げ出した。
 

淡々とした描写の中にジワジワ迫るものは何なのか。それは現実なのか。
大袈裟な演出を取らない心理ミステリー。

ここから下ネタバレ観てない方は観てから読んでね 


山の中の暮らしは一見楽しそうだ。

「みんなで愛し合う儀式」さえ受け入れて通過してしまえば、後は自由。

前の家族との連絡は禁止。
酒は禁止。
食事は一食。
服は共用。
寝室は自由。
「役割」は自分で探す。

マーシー・メイの「役割」は「教師でリーダー」。
そこから逃げ出してきたはずなのに、姉の元に行っても頭から「教師でリーダー」である自分が抜けない。

常軌を逸した行動を取る、と義兄から言われる。
態度が尊大だと。

山の中の暮らしのままの頭では、下界で暮らす事は出来なかった。

前半は、ちょっと間延びしているように感じた。物語の謎が「なぜ逃げ出して来たのか」に尽きるので。

しかし、記憶の中の山の生活が次第に狂気を帯びてくると、逃げ出す理由が解ってくる。

そして、そこから始まる「追われている感覚」。

それが幻覚なのか真実なのかは解らない。
映画の冒頭から続いている記憶と現実の境界がまるでない演出のせいで、みんな現実なように錯覚させられてしまう…。

しかし、現実なのかも知れないね。

教団は確かにマーシー・メイを追い、取り戻すためについて来ているのかも知れない。

後ろに迫る車が追突して来るか……と思う所でエンドロール。
真実は謎のまま。


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